秋葉山の歴史について

秋葉山の歴史について(其の壱)

間処武夫氏の概説静岡県史によると、遠江国犬居城主天野氏は源頼朝の家臣天野遠景の子孫で、代々静岡県周智郡犬居城に居り、吉野朝時代から北遠に勢力を奮った豪族で、井伊氏・奥山氏と共に宮方(勤皇派)として活動したのであったが、足利時代になると井伊氏らと共に今川氏に帰した。

天文十八年、義元が大原雪斉・朝比奈泰能をして織田氏の安祥城を守っていたが、その際義元から感状を得ている。後、桶狭間の戦に義元の斃れた時は、氏真から書を与えられて忠節を励まされた。

秋葉山の歴史について(其の壱)

秋葉山の歴史について(其の弐)

永禄の末年から宮内右衛門と名乗ったが北遠における一大勢力で、今川・武田・徳川三氏が駿遠に争うや互いに天野氏を味方に引き入れて、遠州の経営を容易ならしめようと努めた。

永禄十一年十一月信玄が駿河に侵入せんとし、徳川・北条両氏に提携の交渉をなし、 今川氏の宿将を買収しつつあった時に、天野氏も提携の交渉を受け、武田氏へ欸を通ずるに至った。

元亀二年春、信玄が三河国に出兵した際は、その軍に加わり、長篠城を攻めて功を立てた。

元亀元年信玄漸く駿河を統一し、将に手を遠・三に述べようとする形勢になった時、家康と同盟関係にある信長は、使者を出して書を信玄に送り、家康との関係を述べて信玄を牽制したが信玄はこれを意とせず、自ら駿河の田中城に移り、六月山県昌景、馬場美濃守に命じ、相良に相良城を築かせ駿河先方衆に命じ、交替して之を守らせ、別に水車をして掛塚を侵さしめ、二月進んで高天神城を攻めたが抜くこと能わずして兵を引き、天方・飯田・秋葉山・光明寺等の旧城を修築し、天野宮内右衛門景貫の犬居城に至り軍を犒い、士を休め、信州伊奈に引き上げた。

この時天野景直軍功により庵原軍の郡司となりて任地に赴くにあたり、その信仰篤かりし秋葉三尺坊大権現の 霊感により大権現の尊像を奉じて来りて庵原郡袖師ヶ浦西窪の里(今の袖師町西久保)真土山(まつち山)に堂宇を建設、元亀二年十一月十六日初めて祭礼を修行して以来今日に至っている。

秋葉山の歴史について(其の参)

話題一転。遠州秋葉山は、一口に秋葉山といっているが、秋葉神社と秋葉寺とがあり、秋葉寺は明治維新まで秋葉神社の別当寺となっておった。別当寺というのは神社を維持経営管理する権限を持っているので、秋葉神社と秋葉寺の両者は極めて密接・微妙な不可分的関係にある。

さて、秋葉寺は元真言宗で、寺名を霊雲院と称した。

大同年間嵯峨天皇から、御詠の歌を賜ったのであるが、その歌の下の句は「秋葉の山に色つきて見え」とあったので、それから秋葉寺と名づけ、山を大洞と称した。即ち大洞山秋葉寺となったのである。

その頃、山に将軍地蔵の木像があったが、之が後世変じて秋葉三尺坊となったと伝えられている。

将軍地蔵というのは、敵国降伏の三昧に住する地蔵尊であって、これが秋葉三尺坊と「なる」ということは甚だ筋の通らぬおかしな話である。察するに天野小四郎景直が霊感を得て駿河の秋葉山に還し奉ったために、その後の身代わりに将軍地蔵をお祀りしたものかと思われる。

秋葉山の歴史について(其の四)

秋葉寺の住持は真言宗の僧侶であったが、別に三十六ヶ寺の宿坊があり、そこは修験者が住し、毎月輪番で秋葉寺に勤め、護摩だけは修験者が専任で修した。後ち三十六坊は次第に減じて十八坊となった。真言宗の秋葉寺が曹洞宗になったのは、永祿年間に森林光幡という人が可睡斉から入りて住持となってからである。

明治初年神祗省から神仏分離の令が下りし時藩令を以て神仏何れなるかを調査させた時、十八坊の中六ヶ寺は権現を以て神と申し立て、自分等は環俗して神官となり秋葉寺を廃毀しようとした。然るに他の十二ヶ寺は飽までも之を仏と申開きしたので遂に六ヶ寺の主張は成立せず、そこで六ヶ寺の者は秋葉山を去った。

明治五年浜松県庁が突然県令を以て、「秋葉権現儀慶応三卯年十二月二十七日神階正一位を授けられ 候事故今般秋葉神社と称し仏具仏器を取払い神職にて進退すべき事」ということが達示せられた。

しかし、秋葉寺はこれを承服しなかったので、県庁は更に第二の理由、無祿、無檀、無住の故を以て秋葉寺を廃寺処分にした。その頃、猶相当の紛争事件があったが結局廃寺になり終わったのである。

秋葉山の歴史について(其の伍)

秋葉寺は前述の通り秋葉神社の別当寺であって両者は不可分的な関係にあるので、秋葉寺の廃毀と共に秋葉神社も消滅に帰してしまったのであるが、その後秋葉神社は火火具土尊(ほのかぐつちのみこと)を神体として秋葉神社と号した。秋葉寺も明治十三年に再興して現在に至っている。

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